つくしの国(九州・西海道・鎮西etc)に存在するさまざまな人とものとことにかかわるよもやまを調査・研究し収録する歴史系アーカイブ。管理責任;遊古堂

2008年1月22日火曜日

太宰府横岳崇福寺1(概要)

 太宰府崇福寺は臨在宗に属す寺院で、山号はその地名から横岳山を名乗る。創建は湛彗禅師により仁治元(1240)年に開かれ、翌年に帰朝した聖一国師(円爾弁円)が開堂となり、寛元元(1243)年に官寺となった。文永9(1272)年に大応国師(南浦紹明)が開山となり、その後、彼の33年間の滞在の間に伽藍が整備されたものと考えられている。天正14(1586)年の島津兵による岩屋城攻めにより全山が焼失したとされる。境内推定地内で正平22(1367)年銘の武藤資能のものと思われる供養塔が出土し、弘安3(1280)年聖一国師の手になる『東福寺条々事』に「少卿経資朝臣当時檀那として扶持す」とあり、博多承天寺同様に筑前守護職であった関東御家人の武藤少弐氏が背景となり成立した初期禅宗寺院であり、室町時代には諸山十刹に位置づけられる重要な禅寺であった。
昭和42年の発掘調査によりこの地に寺の中心建物であった礎石建ちの法堂または仏殿と僧堂がL字に配された形状で確認された。建物は上下2層の2時期のものが確認され、上層のものは出土した瓦類などから室町前期に比定され、下層は鎌倉後期に遡る可能性がある。
太宰府の崇福寺は武藤少弐氏を檀越とし初期禅宗寺院として谷地を堂舎・庵、それに接す丘陵部に石塔を用いた墳墓を形成し、それら複数の谷に各頭塔を配すことで寺域を形成していた山拠型の典型例といえる。その寺域は守護所や居館エリアに隣接し武藤少弐宗家の菩提所としての機能も果たしており、僧侶達が守護家の外交ブレーンとしての位置づけであったことも当然配慮されての選地であったと考えられる。

遊古堂プロフ

博多i椿屋主人。 趣味;盆栽、仏画、よもやま噺、山さるき 博多、筑紫地区、各地山岳に出没。